セリア玉手箱コラム-ギャラリースペース

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"ギャラリースペースことのは”にコラムを掲載して頂きました。

初夏。
八王子は、山が近い。
少し歩いてみたくなる。
道路端の若い緑はとてもきれいだ。
誰かが世話をしているはずだ。
自然の植物のかげには、人の姿が隠れている・・・。
最近できた、近所の「セリア ギャラリー」に行ってみよう。
私の「ギャラリーことのは」から、徒歩7・8分のところなので、
それなりのお付き合いになった。 
「我がふるさと 大神田一得水彩画展」が開催中である。
オーナーの父君の描いた水彩画・遺作展である。
DMに「ふるさとの山、川、湖、林、田園風景はいつか誰もが見た風景・・・」
という短文があり、すなおな表情の漂う写真画像が載っている。
オーナーの手によるDMであろうか。

安心感に誘われる絵である。
何も語らないように、
姿をどこにも現さないように、
しかし、私達をささえている、そのような存在が、
風のように私を刺激して、立ち去っていったような気がした。
その安心感はどこからきたのだろうか?
懐かしい「ふるさと」が、その存在を押し付けないようにしながら、
静かに私達を抱懐しているということなのだろうか。

むかし私は、小さないわゆる「労働組合」に参加していたことがあった。
自分を含め、自分達のことを、思い入れを込めて「労働者」とか、「大衆」等の言葉で呼んだ時代であった。
ある時、「労働者」や「大衆」は、「本当にいるのか?」、
という気持に襲われたことがあった。
そして、このことは、「その気持に襲われたこと自体が大事なのだ」と今では思っている。
「ふるさとは本当にあるのか?」というような気持ちに襲われたとすれば、恐らく、同じようなことであろう。

「ふるさとは本当にあるのか?」というその気持ちに対しては、
常に、絵においても、執拗に描かれて答を返し続けなければならない、
そして常に、このような展示がなされていなければならない、と思えるのである。

街に住む誰でもが、気楽に、自分のリズムで、
ギャラリー運営(?)に参加してみてはいかがだろうか、
世間に、普通にあるギャラリーとは違った趣の方がかえって楽しいのではないか、
「セリア ギャラリー」はそんなことを想わせる。

八王子の初夏に街を歩くと、気のせいか、いくらか今昔の風が渡る。
私達はその自然の内側で、右往左往してきたのだろう、か。
今も昔も、自然の植物のかげには人々の姿が隠れている・・・。

いずれにしても、絵のような、背後の存在が信じられていることは、
普通に生活できることの根拠のような気がする。
つくづく幸運なことだと思われる。

そんな気分をかかえたまま、近所の初夏を歩いている。
もうじきオーナーご夫妻の事務所の、3Fにあるセリアギャラリーに着くところだ。


文 ことのは 宇田川 靖二さん

ギャラリーことのは ホームページ
http://www.gs-kotonoha.jp/gallery/g-seria.html

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